暇だ。とにかく暇。

考える時間だけ無駄にあって、だけどもそれはなにも生産性がなくって、ただぐだぐだしてるだけの日々。ずっとインターネットして1日が終わる。

できることはいっぱいあるのに、なにもしない。

みんなこの間にも、将来のための勉強をしたり一歩一歩先に進んでいるのに、私はなにもせずふらふらと居候をして依存している生活。

 

はやく働こう。

こんな生活とてもつらくっていやになる。

 

感情と言語化

わたしは心理カウンセラーになりたい。 けれど、多分、それは難しい道のりになると思う。 心理カウンセラーになるには、まず大学院生にならなければならない。 そして、討論を何回も行い、論文も何枚もかかなければいけなくなる。 わたしは、この討論だとか論文が大の苦手だ! じぶんの考えを言語化することが本当にできないからだ。 というよりむしろ、じぶんの考えを自覚することがむずかしいのかもしれない。 つくづく自己表現というのが苦手なのがわかる。 自己表現するためには、 認知→感情→言語化 の作業が必要だ。 わたしは、養育環境のせいもあるのか、 じぶんの感情を感じることが苦手だ。 なにをしても、なにをされても、心を動かされることはない。 ない、と断定するのもおかしいが、動きにくいのは確かだ。 心が動いていないまま、なにかを言語化する場所に追いやられたとき、わたしは頭でものを考える。 そうすると、じぶんの心と言葉に乖離が生じてくる。 自分で考えているのに、自分で考えている気がしない。 他人が話しているような感覚。 そうすると、論文や討論でのわたしの言葉は、魂のこもってない、一貫性のない、他人の言葉を貼り付けたような、 たどたどしい文章になる。 気持ちわるい。 じぶんの意見がない、ということに、かなりコンプレックスを抱いていたのですが、 抑圧しすぎて、気づけなくしているのだろう、と最近思っている。 はやく、じぶんの感情に気づきたい。

ビートルズがわからない

わたしはなにもわかることができない。

わたしはビートルズが大好きだ。

高校の時から何年も聴き続けている。

だけど、全アルバムコンプリートしたって、何回もリピートしたって、何年も聴き続けたって、わたしはビートルズを説明することができない。

良い。大好きなバンドだ。

それ以外になにもいえない。

一方で、ベストアルバムしか聴いていないのに、ビートルズについて1時間ほど語れる人間もいる。

そのちがいはなんなのか?

それは、

わかったふりができるということだろう。

もしくは、そのひとたちは、ビートルズではなく、ビートルズについて語る自分を語ることができるということかもしれない。

難しい。

わたしは一生ビートルズがわからない。

自立するということは、見えない何かに依存するということだと思う。 頼ること、甘えることが、物ではなく人に。 それが自然にできる人のみが、自立できるのだと思う。 わたしは親にも甘えられなかったので、自分のうちに頼るしかない。自分の足で立って生きるしかなくなる。 その生きかたは、もろい。人生という風が吹き飛ばすような嵐の中では、立っていられない。 自分の足で立つ、ということは、 人と人のつながりがあって、はじめて可能になる。 人と人で糸のように、ぴんと張った、強いつながりが、支えになる。 嵐のなかでも吹き飛ばされない。 人とのつながりがうすく、ひとりで生きていこうとするものは、安定しない。 このような状態は、糸がゆるゆるになっている。 糸がゆるゆるなので、すぐに吹き飛ばされてしまう。 自分というものが安定しないので、新しいことに挑戦したりすることも億劫となる。 自己完結は、ゆるやかに、死んでいく。

自分の安全基地が、音楽や、映画や、布団なのではなく、恋人や、親や、コミュニティであれば、なんと世界は生きやすかったのだろう。

私は自分の心のすきまを埋める方法を、ひとりぼっちであることに求めた。

ひとりぼっちであることから、逃げるのではなく、

ひとりぼっちであることに、逃げた。

寂しいんだと思う

中学生からの愛の授業 読了。

わたしはここ数日ずっと鬱々して最悪な気分だったのだが、これを読んですこしばかり回復した。

同調圧力に負けない恋愛をしたいとおもった。

わたしは男の人から「やらせて」と頼まれたらすぐセックスしてしまう。

もちろん、道徳的な世間の目があるので、誰彼構わずセックスしないけど、彼氏にはすぐに応えちゃう。

そしてわたしもあなたと同じくらいセックス大好きなんて嘘ついてしまう。

気持ちいいふりをする。

出血大サービスしすぎる。心は血みどろだ。

でもそんなベッドの中で演じることができるこの時間が、わたしにとってスペシャルであったりするのだ。

ふだんの自分ではできないことを、セックスしてる間ならできる。

けどね、本当のところ、わたしは愛されたいだけなので、セックスなんてまるで興味ない。

ハグしてチューして大好きって言って欲しいだけ。

愛の深い、情緒的な関係を作りたい。

そのためには、自分を安売りしないこと、世間体がどうとかではなくて、自分の頭で考えて、流されるのではなく自分で決断をし身を許さなければならないとおもった。

女の人も受け身であってはならない。

ただ.「観念のあるセックスのほうがより濃密でおもしろい」っていうのはまだピンときていない。

だって、セックスは感情主体の行為だと思うから。

観念だらけで論理にがんじがらめされたセックスのほうが面白くない。 わたしはつねに凝り固まった自意識と観念に支配されて身動きがとれなくなるので、どちらかといえば、感情的に動く恋愛がしたいです。

読書感想文地獄

読書感想文なんて言葉を目にすると、あの夏特有のじめっとしたイヤ〜〜〜〜〜な気持ちがよみがえってくる。ほかの宿題はなんてことなかったのだけれど、読書感想文だけはどうしてもどうしてもだめだった。

わたしが小学生・中学生のとき、読書はほとんどしなかったし、ましてや感想文を書くことなんて苦痛でたまらなかった(今もだけど!)。本を読んだところで「面白かった」しか書くことがないのだ。

勉強が平均以上に出来て、プライドが高かったわたしは、自分の文章のつたなさが許せなかったのだろう、読書感想文は悪知恵を働かせてなんとかうまくみせかけて書いていた。

懺悔すると、インターネットのひとの感想を自分の思ったことのように取り上げて書いたりしていた。コピペみたいなものだ。担当の先生がかわることをいいことに、前年と同じ感想文を提出したこともある。反省しています。

あのころ、つたなくてもいいということを自分に許してあげればよかったし、そもそも原稿用紙3枚くらい、なんでもいいから埋めればよかった。自分の気持ちを自分で探せばよかった。ちゃんと、本を読めばよかった。

文章能力を向上させるのに、読書感想文はとても重要な役割を担っていると思う。アマゾンなんかで、本のレビューをよく書いている人はだいたい文章がうまい。

はてなブログも面白い記事を書く人が多い。文章もうまくて、わかりやすい。そんな人をみると、コンプレックスがじわじわと姿をあらわして、わたしを卑屈にさせてしまうけれど、そんなことで卑屈になったってしかたがないので、自分の能力を認めてあげたうえで、ちゃんと努力しよう、っておもいました。文章の練習をします。

みんなも出来ていることが、わたしに出来ないはずない!

 

 

トピック「読書感想文」について